中津川修理と中津川親顕(工事中)

 中津川氏は伊達家家臣。そこに囚われていては展開も発見もないと思い、新潟県村上市を訪れ、本庄繁長の史料をさがした。郷土史家によって書かれた冊子には、中津川氏の記述は無かった。 帰り道、小国町から米沢市に入り、市立米沢図書館で調べたところ、あの井上俊雄さんの晩年の論文「在地史料から見た直江兼続と置賜」を発見。「上杉侯家士分限帳」なる文書に、中津川氏の名が登場していた。
 目から鱗とはまさにこのこと。伊達家文書には無い事実にたどり着いたのである。
 さらに論文には、直江兼続の側近に中津川修理太夫(しゅりだゆう)なる人物がいたことも記されていた。
 
 伊達家以外の中津川氏を調べてみることにした。
もっとも古いものとして、南北朝時代の応永十一(1404)年、

「安積一揆契状」なる連判状に中津河参河守秀清という人物が登場する。 伊達家文書の「晴宗采配下賜録」にも、小国の上郡山氏まわりに中津川三河守という人物が改易となる記述がある。
 郡山市郊外の中田町に中津川神社があり、調べてみるとその近くの地図に「中津川館跡」を発見。それは、応永年間の連判状に登場する中津河参河守秀清の拠点と重なった。

 田村氏の家臣である可能性が高いので、「奥陽仙道表鑑」を見てみると、伊達政宗に嫁いだ愛姫(めごひめ)の父、田村清顕には多くの兄弟がいて、その中に中津川氏の養子となり、中津川氏を継いだ小次郎親顕(ちかあき)なる人物がいる。